ごめんなさいと言えますか?

世の中、争いが絶えることがありません。普段の生活でも身近な人とささいなことで衝突することが少なからずあると思います。そんなとき、自分の“正義”をあくまでも主張するのか、身に覚えがなくても一歩下がって「ごめんなさい」と謝るのか。beモニターのみなさんに聞いてみました。

https://www.asahi.com/articles/DA3S16026855.html

最近、深く考えていたこと。そして、気づいたこと。

ごめんなさいとという謝罪には、おおきく分けて2種類あるのではないか。自分の過失により相手に迷惑をかけてしまったときの謝罪。そして、自分の過失に基づかなくとも意見の相違や価値観の違いに伴い相手に不快な思いや傷つけてしまったときに相手の立場を思ってする謝罪。

前者って、子どもが小さい時には、お友達とのトラブルなども多くて、私もよく謝罪していた。相手が痛い思いをした場合にはごめんなさいって言うんだよって言ってたな。仕事上のミスでご迷惑をおかけしたときはまずは謝罪をする。もちろん、過失、重過失、など相手の損害しだいでは、裁判にもなる可能性もあるし、遅刻などして相手の時間を奪ってしまうようなことがあれば信頼にも傷がつく。でも、この謝罪は、自分の過失に基づくのだから、過失がおこならない構造をつくればある程度は防ぐことができる。

後者は、過失ではなく、育ってきた環境・価値観の違いに由来するので、大人になればなるほど要求されるような機会が多いかもしれない。個人個人育った環境も価値観も違う人の集まりの中で、ひとつのコミュニティのなかで前を向くのに、相手の立場で考える機会が増えるから。自分の過失ではないけど、価値観の違いによる意見のすれ違いで使うごめんなさいって、相手を理解する、総合理解のきっかけだと思う。「あなたの背後の価値観を理解できないことでそんな言葉を言ってごめんなさい。」言われた側も「そういう価値観が背後にあったからなんだ、こちらも理解できていなくてごめんなさい。」みたいな。

この記事では、前者も後者もごちゃまぜになっているから、ごめんなさい=どちらに落ち度があるのかとか、悪くなくても謝罪するのが社会人とか、最後には、謝罪を受け入れる寛容さがこの社会から失われないことを願うばかりだと、結んでいるけど・・・ごめんなさいの意味が、前者なのか後者なのかで、とても変わってくる。最近そのことに気づいて、とても大事なことだったのではと改めて深く自問自答している日々です。