枯樹賦 褚遂良(596-658)

今月の競書、古代中国の三代書家褚遂良35歳の書。

褚遂良については以下(Wikiより)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%9A%E9%81%82%E8%89%AF

課題は、枯樹賦の文章の中の一部分

まずは、漢文をじっとみて、そのあと、漢文の訳文をみていて、ふと。訳文とは、漢文に、助詞、助動詞、音読み、訓読みがついている、だけど、意味はよくわからない。これは、漢字が古代日本に入ってきたときの、日本語にあてはめるために、カタカナかなふりや音や訓をあてはめたやり方と同じではないかと。現代において、この手法を学ぶ意義はあるのだろうか。そういえば、中学高校においても、このやり方だったことを思い出す。「子曰ク・・・」とかだったかな。学校教育で漢文を学ぶのは、中国語(漢語)を学ぶのではなく、漢字を文字がなかった日本語に当てはめる過程を学ぶのだろうか。日本語に文字がなかったから、文字として最初に入ってきた漢字を選択せざるおえなかった、でも、中国の漢文に、レ点などをつけて、音と訓をセットにして読む必要があるのだろうかと。漢文の意味もわからない。ちょっと極端だが、英単語に、レ点や助詞をつけて、読んでいるようなものではないだろうか。今の日本語における漢字は、そもそも漢語とは文法も違った日本語があてはめられて、かなやカナとセットで発展してきて、しかも、当用漢字として簡略化されたものを使っている。なので古代の漢字が入ってきたときは違うものになっている、なので漢文は、外国語もしくは中国の歴史として、訳文と漢文の音で学べば、そのほうが、すっきりすると思う。

そう考えると、古代中国の書家を学ぶにあたって、何が一番大事かと考えると、まずは、名作と言われるその作品の分析、その漢文の意味と、その書家の背景、日本語をあてはめた読みはいらないのかも。読むのであれば漢語読みが一番いいのかも。なぜ、中国語(漢語)を、音訓まじった日本語読みをするのだろう。このあたり、また調べてみよう。